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東大阪市

あしあと

    B地区:瓢箪山周辺

    • [公開日:2012年2月29日]
    • [更新日:2022年2月27日]
    • ID:7254

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    生駒の自然を楽しみ、古代の歴史を学ぶ

    コース

    瓢箪山駅(近鉄奈良線)―道路改修記念碑と道標―河内寺跡―市立郷土博物館・山畑古墳群―出合地蔵―安養寺―空川地蔵―梶無神社―市立埋蔵文化財センター―瓢箪山稲荷神社―太閤橋―瓢箪山駅[約6km]

    地図をクリックすると、拡大地図が表示されます。

    道路改修記念碑と道標  (喜里川南交差点)

    道路改修記念碑と道標の写真

     瓢箪山駅の踏切をはさんで南北につながる商店街の道が京都と和歌山の高野山をつなぐ東高野街道(京道)で、北側アーケードを出たところで新道と旧道に分かれます。北に直線で伸びる新道は、昭和12年(1937年)6月の貞明皇太后の枚岡神社行啓に際してつけられたもので、記念碑が旧道分岐点に建てられています。また、安政6年(1859年)と刻まれた道標が記念碑の脇に1基と旧道を北に少し行ったところに1基残されています。

    河内寺(こんでら)跡  (河内町8-10)

    河内寺(こんでら)跡の写真

     河内寺は、古代の河内を支配した一族河内連(むらじ)の氏寺であり、寺の名に郡名を冠していることから役所に付属した寺(郡寺)であったことが知られています。出土した軒丸瓦・軒平瓦から、7世紀後半に創建され鎌倉時代まで存在したことがわかります。昭和42年以降の調査で東廻廊や、東西22m、南北14.5mの金堂跡が発見され、その南の周囲より一段高くなっているところで塔跡と考えられる基壇及び礎石の並びが発掘されました。これらの調査結果により、伽藍(がらん)配置は四天王寺式と考えられ、寺域は南北1町半(約165m)、東西1町(約109m)を占めると推定されています。この寺は平安時代まで維持されますが鎌倉時代以降は東に隣接する客坊廃寺に寺地を移したものと考えられます。なお、写真は平成17年2月26日の現地説明会当時の様子であり、現在は保存のため埋め戻されています。

    市立郷土博物館・山畑古墳群  (上四条町18-12)

    市立郷土博物館・山畑古墳群の写真

     昭和47年12月に開設した郷土博物館の館内には、市内各地の文化財が集められ展示されているほか、史跡見学会や講演会、講座などを行っています。(くわしくは、こちら)。同館敷地内にある双円墳の山畑22号墳ほか5基の古墳を含め、山畑古墳群にはこれまで70基ほど確認されていますが、現在は20基ほどを残すのみです。直径10~15mの円墳がほとんどですが、なかには方墳、上円下方墳、双円墳などもあります。主体部は横穴式石室で、石室内より須恵器、土師器のほか馬具、装身具などが出土しています。

    出合(であい)地蔵石仏  (四条町17)

    出合(であい)地蔵石仏の写真

     もとは村の東方、鳴川谷道(地蔵谷)の出合というところの岩壁に彫られた磨崖仏を、採石の際に切取り、現在の場所へ移して乾小路(いぬいしょうじ)の守り地蔵としてまつったもので、旧所在地の名をとっています。
     石仏は、不整形の花崗岩に縦61cm、横57cmの四角の掘り込みを作り、向かって右に像高52cmの来迎印弥陀立像と、左に同寸法の錫杖を持った地蔵立像を浮き彫りにした二尊石仏です。弥陀と地蔵像を並べて彫る石仏は、古い墓地に多く見られ、様式的には室町時代に流行し、形が小さいのが普通ですが、この出合地蔵は大きくて彫刻もすぐれており、南北朝時代末期ごろの作と考えられています。

    安養寺  (四条町15-7)

    安養寺の写真

     安養寺は、大龍山と号する浄土真宗の寺院です。この寺院にまつられている阿弥陀如来画像の背面には、寺が永正7年(1510年)に平岡郷四条村の惣道場として開かれたことが記されており、この記述は、市内における寺院創建に関する最も古い記録です。また、本堂前庭に建つ法華塔は、東高野街道(京道)から鳴川峠越の道が別れるところ(東診療所から2本北側の斜め道)の角にあった一里塚に建てられていたもので、花崗岩製の江戸末期の作。塔身4面に釈迦・弥陀などが彫られています。

    空川(そらかわ)地蔵石仏  (四条町17)

    空川(そらかわ)地蔵石仏の写真

     地蔵堂の板張りの花頭窓を透かした奥に、石造地蔵菩薩立像がまつられています。昔この道沿いに空川という川があり、そこで見つけられたものです。像の下半部は欠けて失われており、石仏は胸のあたりまでのものです。像の高さは129cm、幅は76cmあり、花崗岩製の大きな船形の光背の前に、頭部の周りには円光を線刻し、右手に錫杖を、左手には宝珠をもった大きな地蔵立像を、しっかりと彫り出しています。腹部までの像高が、94cmあるところから、全体では2m近い大きな石仏であったと考えられます。

    梶無(かじなし)神社  (六万寺町3-14-31)

    梶無(かじなし)神社の写真

     もとは、四条梶無の里(現在の神田町)にありました。この地は、神武天皇が孔舎衙坂の戦いに敗れ、一軍を引き連れて難波江を南下したとき、風雨が強くなり、梶が折れて漂流し、船がついたところと伝えられています。本殿北側のくすのきは、毎年飛来するフクロウ科のアオバズクの繁殖地として市の天然記念物に指定されています。

    市立埋蔵文化財センター「発掘ふれあい館」  (南四条町3-33)

    市立埋蔵文化財センター「発掘ふれあい館」の写真

     平成14年11月、縄手中学校の一角に、発掘調査の拠点として開設し、市内で出土した遺物を収納するとともに市民に調査成果を公開し、昔の人々の暮らしの一端を体験学習できる場を提供しています。(

    瓢箪山稲荷神社  (瓢箪山町8-1)

    瓢箪山稲荷神社の写真

     瓢箪山稲荷神社は、豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、瓢形の小山に金瓢を埋め、伏見桃山城から、ふくべ稲荷を勧請したことに始まるといわれています。双円墳で瓢箪形をした6世紀の古墳(瓢箪山古墳)の上にまつられており、本殿はくびれ部に西面しています。
      参道入口の東高野街道では、江戸時代には既に「辻占い」が行われており、明治時代になって山畑顕海がはじめた「辻占(つじうら)」で神社は大いに繁盛し、参道にはたくさんの旅館・茶店が並び賑わいました。

    太閤橋  (神田町3)

    太閤橋の写真

     戦国時代の武将松永弾正久秀が、まだ浪人の身であったとき、旅の途中で食物に困り、この付近に供えてあった餅を食べて一時をしのぎ「出世したら必ず恩返しをする」と約束しました。後日、名を上げた久秀は、「瓢箪山は悲運のときのゆかりの地である」として古い木橋を石橋にかえ、大功橋(のちに太閤橋)と名づけたといわれています。この橋のある辻は、久秀が思案にあまって吉凶を占ったところから「弾正の辻」と呼ばれています。