A地区:石切~額田
在原業平ゆかりの地を訪ね、石切劔箭神社参道をそぞろ歩く
コース
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石切劔箭(いしきりつるぎや)神社の参道

石切駅から神社までの参道は、商店が並び門前町のようになっています。これは、大正3年(1914年)大阪電気軌道の開通により千手寺前駅ができ、同6年に大戸村が道幅を広げて整備したことから現在の道になりました。昭和39年新生駒トンネルの開通に合わせ、千手寺前駅は廃止され、現在の石切駅となりました。
千手寺(せんじゅじ) (東石切町3-3-16)

役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれ、その後、空海(弘法大師)が千手観音を本尊として中興したと伝えられています。
惟喬(これたか)親王の乱で出火消失し、本尊の千手観音が深野池に飛入。池の中で光を放っているのを在原業平(ありわらのなりひら)が発見して、寺を再建したといわれ、業平の腰掛石や五輪塔、業平廟(びょう)などが残っています。
また、境内には、大正時代に「そろり」という落語家が芭蕉の句をもじってつくった「業平と背中合わせのぬくさかな」という歌碑もあります。
寺にある湛海(たんかい)作の不動明王坐像は大阪府の指定文化財です。
また、本堂の裏に古墳時代後期の横穴式石室が保存され(弁天塚古墳)、見学することができます。
石切劔箭(いしきりつるぎや)神社 (東石切町1-1-1)

石切劔箭という名は、石をも切断する鋭い剣や矢(箭)を意味しています。「石切さん」の名で腫物の神様として親しまれ、多数の参詣者が絶えません。境内の「くすのき」は、樹齢約470年で市の天然記念物です。
大西丹後守の馬乗石 (東石切町1-8-3)

地蔵堂の前にある自然石の生駒石です。
昔、この付近に剛力で知られた大西丹後守という豪族が住んでいました。その大西丹後守は背が低かったため、「この石に立ってから馬に乗っていた」ということで、この名がつけられたそうです。
夫婦塚古墳 (東石切町2-5-12)

市の指定文化財です。
墳丘の周囲や墳頂部が削られていますが、もとは円形を2つ合わせた双円墳と考えられ、両方の墳丘には横穴式石室が築かれています。
東側の石室は、全長9.2m、向かって左側がくびれた片袖式(かたそでしき)と呼ばれる形をしています。平成元年の発掘調査で、2体が埋葬されていたことが明らかになりました。
西側の石室は、全長9.6mの片袖式で、内部には3体の遺体を埋葬した痕跡が残り、鉄釘が出土したことから、木棺が使用されたことがわかります。
出土した遺物の年代から、この古墳は6世紀中頃に造られ、東側石室から埋葬が始まったことが明らかになっています。
玄清寺(げんせいじ) (東山町11-17)

古代河内で勢力をもった額田首(ぬかたおびと)の子孫といわれる高内正定(たかうちまささだ)が織田信長に従い大坂石山本願寺との戦いに参加した後、その戦没者の霊を弔うために慶長2年(1597年)に建立しました。
高内正定の法名、浄翁玄清居士から玄清寺と名づけられました。
門を入って左手の観音堂には、当時から本尊の観音像の脇侍として地蔵菩薩像とともに南無仏太子像(聖徳太子2才像)が安置されていたことが棟札に書かれています。南無仏太子像は、総高69cm、桧材、寄木造で室町時代の作、彫法もすぐれており、市の有形文化財に指定されています。
妙徳寺(みょうとくじ) (額田町2-32)

昭和2年まで大阪の福島にありました。江戸時代に五百羅漢(らかん)を安置したので、俗に羅漢寺といわれていました。
本堂は入母屋造(いりもやづくり)、本瓦錣葺(ほんがわらしころぶき)で黄檗(おうばく)建築の特色をよく伝えています。
本尊は阿弥陀如来坐像です。別に旧本尊の仏手と思われる漆箔のものが遺されています。