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東大阪市

あしあと

    市政だより 平成29年2月1日号 別紙2・3面(テキスト版)

    • [公開日:2017年1月27日]
    • [更新日:2021年12月10日]
    • ID:18921

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    市制施行50周年記念特集
    半世紀の歴史とともに、未来へ

    東大阪市の市制施行50周年を記念して、これまでの歴史を振り返るとともに、新たな50年に向けたスタートとなるよう願いを込めて、本市にゆかりのあるいろいろな方に東大阪市への思いなどをうかがいました。

    国際都市として発展を

    京都大学iPS細胞研究所所長・本市名誉市民(平成25年7月贈呈)
    山中伸弥さん

    今行っている研究や活動

    主に3つの拠点で活動をしています。

    1つ目は、総勢500人ものメンバーを抱える京都大学iPS細胞研究所、2つ目は企業との共同開発を進めている湘南の研究所、そして3つ目が自分自身の研究を行うサンフランシスコの研究所です。3つの場所を行き来しながら、終わりのない新しい技術開発に努めています。

    そんな合間を縫って、マラソンの練習もしています。昨年の京都マラソンでは3時間44分という自己ベストが出せたので、さらに1分でも縮めるべくトレーニングを続けたいです。

    ラグビーワールドカップ花園開催への期待や思い

    “聖地”花園でのラグビーワールドカップ開催が決まって本当に良かったです。わくわくしますね。近くに住んでいると「いつでも行ける」と思ってしまい、なかなか見に行くことがなかったのですが、この晴れ舞台はぜひ応援に行きたいです。

    50周年を迎えた東大阪市への期待

    3市が合併して、しばらくはそれぞれの市の特徴が残っていた印象ですが、50年の歳月を経てひとつの立派な市に成長したなと思います。その間には、多くの方々のご尽力があったのだと感じます。モノづくりもラグビーも大切な市の財産です。これからも誇りをもって100年、200年と伝え継いでいってほしいですね。

    大阪には多くの観光客が訪れるようになり、世界中から注目される都市になってきました。東大阪市も国際都市として発展していってほしいですね。

    これからの夢や抱負

    目標は、iPS細胞という技術で今は治せない病気の患者さんを何十年後かに治せるようにすることです。

    私の父は、私が25歳のときに当時の医療技術では治せなかった病気で亡くなりましたが、30年近く経った今では治せるようになっています。こうして、時間はかかりますが、一つひとつ克服していけたらいいなと思っています。

    市民の皆さんへのメッセージ

    東大阪市で育ち、ずっと関わってきたので、町工場の力や魅力あるまちに感謝の気持ちでいっぱいです。私が見本になるかどうかわかりませんが、生き方のひとつの例として見ていただけたらうれしいです。

    東大阪市にはすばらしい方がたくさんいらっしゃいます。これからもいろいろな人材が登場してくれることを期待しています。

    思い出の詰まった花園を誇りに

    元ラグビー日本代表・現京都産業大学ラグビー部ヘッドコーチ
    元木由記雄さん(45歳)

    東大阪市で生まれ、英田中学校でラグビーと出会い、日本代表としてラグビーワールドカップに4度の出場を果たした元木由記雄さんに、花園の思い出やラグビーに懸ける熱意をお聞きしました。

    ラグビーとの出会い

    中学校に入学したときに、クラブはテニス部に入ろうと思っていたのですが、ラグビー部の先輩方が門のところで待っていて、ラグビー部に入部することになりました。

    チームとして強くなりたかったので、学校から帰ってごはんを食べた後、みんなで自主的に集まって、競争しながら枚岡神社の急な坂道を駆け上がり、神社の境内で何度も腕立てをする、というような練習を毎日していました。今のようなトレーニング設備もありませんでしたので、自然の中で強い体づくりをしました。

    このラグビー部で出会った恩師や仲間たちから、一人ではたいしたことはできないけれど仲間とならできる、ということを教えてもらいました。

    花園の思い出

    花園ラグビー場へは、ラグビーを始めてすぐに社会人の試合を見に行きました。自分自身の試合では、中学3年のときに大阪選抜に選ばれて憧れの第1グラウンドで試合をしました。芝の緑がすごくきれいだなって思ったのを覚えています。

    高校2年のときには、全国高校ラグビー大会の決勝で両校優勝の高校トップとなりました。あのときのやり遂げた充実感は今でも仲間と振り返ります。

    花園ラグビー場は思い出がいっぱい詰まった大好きなグラウンドです。

    ラグビーワールドカップ2019日本大会のアンバサダーとして

    ワールドカップは本当にすごい大会。他の国際大会とは違い、全ての国がベストメンバーで全力・本気で向かってきます。

    2015年イングランド大会での日本代表の活躍により、日本が世界から認められるようになり、注目度も高まりました。

    2年後この日本に、そして花園に世界の強豪国がやってくるのがとても楽しみです。これを機に、ラグビーを応援する人がもっと増えてくれることを願っています。2019年はぜひ、東大阪を世界にアピールし、すばらしい大会にしましょう。

    50周年を迎えた「ラグビーのまち」への思い

    自分自身が花園ラグビー場のあるまちで生まれ育ち、そこでラグビーと出会えたこともあり、日本中・世界中に名の知れた花園を誇りに思います。

    東大阪には、世界に誇る技術をもったモノづくりやラグビーをはじめとするスポーツといった良さを活かして、これからもまだまだ活躍してほしいですね。

    「ラグビーのまち」
    花園ラグビー場の歴史をひもとく

    ラグビーの“聖地”といえば花園です。花園ラグビー場は、昭和38年の第42回大会から全国高校ラグビー大会の会場として定着しています。

    花園ラグビー場は、昭和3年に秩父宮殿下が橿原神宮(奈良県)ご参拝のため大阪電氣軌道株式会社(現在の近畿日本鉄道株式会社)の電車を利用されたとき、同社の役員に「沿線にはずいぶん空地が多いじゃないか。このあたりにラグビー場をつくってはどうか」と話されたことをきっかけに、昭和4年、同社が建てた日本初のラグビー専用スタジアムです。

    当時、ラグビー場の建設は国内に例を見なかったことからイギリスのトゥイッケナム・スタジアムからサイズをとり、周囲各9メートルの余地を設け、縦横100分の1の勾配をつくって水はけをよくし、全面に高麗芝を植えました。ちなみに当初、シャワールームは両チームの選手らで1つを共用していました(ノーサイドの精神からという説があります)。

    その後、平成4年の改修で、それまでの1万2,000人から3万人を収容できる現在の姿へと生まれ変わり、平成27年からは、近鉄から建物の無償譲渡を受けて東大阪市が所有することとなりました。

    ところで花園ラグビー場は、昭和28年~平成3年の間、第1グラウンドがゴルフ練習場として使用されていました。また、さだまさしさんやきゃりーぱみゅぱみゅさんらアーティストがコンサート会場として使用するなど、花園ラグビー場はラグビー、スポーツにとどまらず、幅広い活躍を見せています。

    モノづくりのまち東大阪から世界へ

    大昭和精機株式会社代表取締役会長
    北口良一さん(79歳)

    昭和42年に東大阪市内に設立された大昭和精機株式会社の代表取締役会長・北口良一さんに、モノづくりのまち東大阪の歴史や未来に向けた取組みなどをお聞きしました。

    市内で会社を立ち上げたきっかけ

    50年前に自分たちの力で世の中を変えよう、良い商品をつくろうと思い立ち、創業するに至りました。何でも揃っていて、物資の輸送にも便利な東大阪は、モノづくりをするには条件的にすごくいい場所でした。

    昭和42年当時の市のモノづくり

    日本の産業の中で伸線業がとてもさかんな時代でした。当時から東大阪は針やボルト、ナットなどの生産を得意としていました。また、ミシンや冷蔵庫、テレビなど東大阪の電機産業がどんどんさかんになっていった時代でもありました。

    50年の移り変わりの中で会社が発展したポイント

    良い社員に恵まれたこと、社会の流れのチャンスに乗れたことが会社の成長につながりました。

    創業当時は5人程度だった従業員も、現在はおよそ850人になります。また、機械が汎用機時代からNC機(数値制御の工作機械)時代になったことや無人化したことも発展の要素になったと思います。

    市内モノづくり企業の未来に向けた取組み

    これから東大阪がモノづくりのまちとしてさらに発展していくためには、世界へと目を向けていくこと、子どもたちにモノづくりへの興味をもってもらうことが重要となります。

    我が社では、ツーリング(ドリルなどの切削工具を工作機械に取り付けるための部品)の開発を通じて、海外へもモノづくり技術を発信しています。また、子ども向けの工場見学や学生のインターンシップを行うなどして、モノづくりへの興味を高めてもらえるよう取り組んでいます。

    50周年を迎えた東大阪市へのメッセージ

    2019年には、ラグビーワールドカップが行われるので、海外の人がたくさん東大阪に訪れます。訪れた人たちにはぜひ、モノづくりのまち東大阪を感じてほしいです。東大阪から世界へと、モノづくりと東大阪がともに歩み、世界をリードしながらさらなる発展をしていけたらいいですね。

    「モノづくりのまち」と言わしめる、その理由

    東大阪は、製造業事業所数全国5位、全国主要都市別事業所密度全国1位を誇る日本を代表するモノづくりのまちです。この東大阪のモノづくりはどのような歴史を歩んできたのでしょうか。東大阪のモノづくりの源流をつくったとされる「鋳物工業」「伸線業」「木綿産業」の起こりは、江戸時代にまで遡ります。

    鋳物工業は、そもそも南河内で発展を遂げ、布施に伝えられたとされています。当初は農工具や鍋・釜などの鋳造が行われ、第一次世界大戦を契機に造船や機械など軍需産業の部品生産、また切削・研磨といった加工業が発達しました。

    伸線業は、特に豊浦谷・額田谷を中心に水車による伸線工場が集中して立地するようになり、当地が伸線のメッカとなりました。伸線は、針金や金網に始まり、のちにボルトやナットなどの線材二次産業分野へと発展を遂げました。

    木綿産業は、大和川の付替え(1704年)による跡地が綿作農業の一大産地を形成しました。さらに明治時代、近代紡績工業による安価な製品との競争に敗れて職を失った人たちが内職で歯ブラシの植毛やボタンの穴開け加工を始めるなどして、新たな興業への分化につながりました。

    東大阪市は、西日本経済の中心地・大阪市に隣接していることから、工場拡張や独立開業の際の適地となり、高度成長期にモノづくり企業が爆発的に増えました。現在、市内企業の製品がバラエティに富み、何でもつくれる「モノづくりのまち」と呼ばれているのは、時代の変化に柔軟に対応しながら、さまざまな業種・業態に転換してきた歴史的変遷があるからです。

    50歳の東大阪市へ

    20歳の私たちから

    今年の成人祭で新成人代表として誓いの言葉を述べた2人からのメッセージです。

    佐藤史織さん

    中学校卒業までを東大阪市で過ごし、現在は山梨学院大学の柔道部で活躍中。

    私は、小学2年のときに柔道と出会いました。中学3年のときに全国大会で3位になれたことが、東大阪市で過ごした中で一番の思い出です。こんなにも打ち込めたのは、東大阪市でたくさんの友達や先生、家族の支えがあったからです。

    また中学時代、らくらく登山道で走り込みなどのトレーニングをよくしていたことも印象に残っています。

    東大阪市はラグビーのまちとして有名ですが、私も兄がラグビーをしていたので、小さいころよく試合の応援に行ったことを覚えています。

    私は、東大阪市でたくさんのやさしい人たちに囲まれて育ちました。これからの東大阪市も、お年寄りや子どもたちにやさしいまちであってほしいです。

    今、私は大学の柔道部で東京オリンピックをめざして毎日練習に励んでいます。支えてくれている人たちへの感謝の気持ちを忘れずにがんばります。

    原匠さん

    高校卒業までを東大阪市で過ごし、現在は慶應義塾大学のバスケットボール部で活躍中。

    東大阪市では、友達と遊び、部活動に励む中で、仲間や先生方とのかけがえのない出会いがありました。バスケットボールの試合会場として何度も足を運んだ東大阪アリーナも思い出深い場所です。

    私は、幼稚園のころから8年間ラグビーをしていました。始めは痛いのが嫌で泣きながらやっていましたが、どんどん夢中になっていきました。ラグビーを通して、精神的にも強くなれたと思います。中学校入学時にラグビー部と迷いに迷ってバスケットボール部を選択しました。

    大学のバスケットボール部では、当初は練習にすら入れてもらえず、初めての挫折を味わいました。今の夢は、バスケットボールで学生日本一になって、両親の喜ぶ顔を見ることです。

    今住んでいる神奈川県でも、東大阪の“花園”“ラグビー”はよく知られています。東大阪市には、ラグビーをさらに盛り上げる先導的な市となってほしいと思います。

    お問い合わせ

    東大阪市市長公室広報広聴室 広報課

    電話: 06(4309)3102

    ファクス: 06(4309)3822

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