子どもたちの地域紹介(感想は平成20年度に在学の児童によるものです)

松原宿
(まつばらじゅく)
 松原村は、江戸時代の初めごろ(1653~1658年)に、奈良街道の旅人の利用を考えて河内側のゆい一の宿場として
そうせつされた。
 村は、多くの旅人や荷物でにぎわった。江戸時代末の松原村の宿屋や茶屋の名前帳によれば、大和屋以下14軒の宿屋、たちばな屋以下9軒の茶店があった。
 しかし、明治になって、おのずと宿屋ははいしされ、さらには大正3年(1914年)大軌鉄道(現近鉄奈良線)の開通により、当時のにぎわいを失いました。
                           (6年児童)
 
くらがり越え奈良街道と
松原の関係
 松原は、くらがり松原とよばれていた。由来は、松原を東西に通じる街道が、くらがり越え奈良街道といわれていたために、このように呼ばれていた。
                           (6年児童)
子どもの感想
 ぼくは、はじめ、松原に松原宿があったこともしらなかった。でも、調べていくうちに、いろいろなことがわかってきて、松原の色々な歴史がわかりました。
 自分がふつうに通っている道も、昔は色々な人が行きかっている。
 すごい所だったと思うと、すごいなあと思いました。
にぎやかな
松原宿
(まつばらじゅく)
 松原は、街道の中でただ1カ所、宿場があった所です。
 350年ほど前、16軒の宿屋があったといいますから、人家の多いにぎやかな所だったようです。
 こうした宿場町には、各地の情報や文化が早く伝わります。明治の新しい制度や文明も、東大阪市では、松原から始まったものが多い。たとえば、明治4年に郵便取扱所、明治7年には警察屯所が設置され、明治20年ごろにはキリスト教講義所が開かれています。
 松原は、このように交通の要所として栄えた。
 明治25年に大阪鉄道の開通により、奈良街道を越える人が少なくなると、松原に泊まる人もなくなり、松原は、宿場町から農村へ変わりました。                                                (6年児童) 
子どもの感想
 ぼくは、松原宿のことを調べて、パソコンや図書館にほとんどないので、すごくたいへんでした。
 でも、自分でいろいろ聞いたり、調べたりして、とてもいろいろ知らなかった校区内の歴史をたくさん知ることができて、よかったです。
 ふつうに通ってるとこも、調べようと思うと、とっても時間がかかる。歴史とは、とてもすごいものだなーと思いました。
地域の
おじいさんのお話
 おじいさんの家は、昔、松原宿の中の宿屋さんでした。おじいちゃんの家は、兵庫屋といったそうです。
 兵庫屋は、ふつうの宿ではなく、仮本陣だったそうです。
 松原宿には、うどん屋、おでん屋、風呂屋、八百屋、おけ屋まであったそうです。
                           (6年児童)
子どもの感想
 ぼくは、松原宿を調べて思ったことは、江戸時代の奈良へ行く道のかかせない宿があったなんて、はじめて知った。
 ぼくは、何でいろんな場所に、たくさんの宿がなかったのかなと思った。たくさんの宿があったら、すきなときに休めるからべんりと思った。
水走氏
(みずはやし)
 「水走」と書いて、「みずはや」と呼ばれる土豪がいました。
 平安時代の1144年に、水走季忠(みずはやすえただ)という人物が、湖沼にそった現在の東大阪市水走から、旧吉田川の流れにそった有福名(ゆうふくのみょう)という土地を開発して、私領としました。
 現在も地名として残っている 水走1丁目から5丁目の地域に当たります。
                           (6年児童)
 
 水走氏は、源氏と主従関係を結び、鎌倉御家人としてつとめるようになった。
 水走氏は、鎌倉時代から南北朝・室町時代の時まで、幕府のいろいろな役職につき、河内地方を支配していたのである。                            (6年児童)
子どもの感想
 ぼくは、水走氏を調べて、いままでぼくらが住んでいる地域には何にもないと思っていた。でも、水走氏を調べて、この地域にも、広いりょう地をおさめて、力をもった人がいたので、びっくりしました。
 きかいがあれば、いろんな人に教えてあげたいし、これからも調べていきたいです。
地名の由来1
「松原」
(まつばら)
 300年程前に作られた河内の国の絵地図を見ると、当時、松原村は街道が東西に走り、村の西はずれには川があり、堤には松原が描かれています。
 「松原」という地名は、きっとこの松林に関係があるのです。                         (6年児童)
地名の由来2
「艮」
(うしとら)
 「艮(うしとら)」という地名は、方角と十二支が交わった円の形からできました。
 円は、上から子・丑・寅というように、右回りになっています。右の図を見ると、今の「艮」地区は、十二支の「丑・寅(うし・とら)」と書いている方角、北東にあります。その「丑・寅」を一文字にして、「艮」になったのです。                                          (6年児童)
方角と十二支
地名の由来3
「水走」
(みずはい)
 恩智川の西岸、国道308号線の南北に広がる「水走(みずはい)」は、北は加納、東は恩智川、西は川中に区切られています。恩智川は、生駒山脈の西斜面の水を受けて、北へ流れる水路ですが、今の川中も270年前の大和川付け替えまでは、吉田川という川が流れていた所でした。
 「水走」は、このように、北へ流れる2つの川にはさまれた地域で、その上、生駒山から西へ張り出した尾根によって、水流がせばめられています。
 「水走」と地名は、こうした地形から生じる、激しい水勢からつけられたものです。
                           (6年児童)

 

校区の史跡めぐり

賽の神神社 (さいのかみじんじゃ)

旧吉田川の左岸堤上にまつられています。本尊は、自然石で道行く人を災難から守り、
村人の安全、若い人の縁結びなどの神です。(東大阪市文化財マップより)

賽の神神社

みちしるべ

「右 (瓢箪山)」「左 大坂」「桑田」と、刻まれています。暗峠奈良街道の三叉路で、稲葉・
吉田本郷・吉田新家をへて、恩智川を渡り、瓢箪山に通じている道の道しるべです。
瓢箪山道といっています。(東大阪市文化財マップより)

道しるべ

学校の北門を出て、少し東へ行った所にある。

松原宿跡 (まつばらじゅくあと)

 大阪と奈良を結ぶ、暗越奈良街道中唯一の宿場です。明暦年間(1655~58)大坂町奉行より、
松原・水走両村に人馬継立を命ぜられ松原の宿場をおいたのがはじめです。町筋は、英田北小
学校の東の南北の道筋と北へ突き当たって東へ折れるL型の道筋ですが、ここに兵庫屋、橘屋など、
14~16軒の旅籠屋がありました。(東大阪市文化財マップより)

 「松原宿」の立て札

「松原宿」の立て札

今でも、わらぶきの家があります。

 わらぶき屋根

吉田川跡

 今からおよそ300年前まで、校区の中に、大和川の支流「吉田川」が流れていました。
大きな川で、今でもその跡が残っています。

 職員室の下には、今でも深さ1m程の水がたまっています。まだ、地中には
川が流れているのかもしれません。

職員室の下の水たまり

吉田川の土手跡。「北池の端公園」の横に、100m程残っています。

吉田川土手跡