【平和特集】戦後75年を迎えて
[2020年8月6日]
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私たちは20世紀に二度にわたる世界大戦を経験しました。戦争は多くの尊い命が犠牲となり、悲劇と破壊をもたらしました。これらの反省から世界的な平和と人権の尊厳を求める機運が高まり、再びあの悲劇を繰り返してはならないと、私たちは戦争の放棄と平和への願いを込めた「日本国憲法」を制定し、恒久平和の確立をめざしています。
しかし、世界では、テロや地域紛争などが今も絶えることがありません。また、核実験や核兵器開発においても平和とはかけ離れた厳しい状況にあるといえます。「平和」とは、人間が人間らしく生きるための基本であり、毎日の生活が安全で安心して暮らせることが私たちの願いです。
会員の高齢化に伴い平成30年6月に解散した「東大阪市原爆被害者の会」で長年語り部をされていた藤本勝子さんと堀川幸代さんに、「被爆体験者からの平和メッセージ」と題してメッセージをいただきました。
「広島、長崎に原子爆弾が投下されたのは今から75年前のことです。あの『原子雲』の下で、倒れては起き上がり、また倒れ、あの『黒い雨』に降られ、大量の血を流しながら、当時9歳だった私は、1人でよくも生き延びたものと思います。あの忌まわしき光景の中、幾多の人々が死んでいったことか。被爆した人々は大やけどで体の皮膚が垂れ下がり、また体の一部がもぎ取られながら、か細い声で水を求めていたのです。私の記憶では、それでも誰一人としてその『痛み』を訴える人はいませんでした。その言葉が出ない極限状態だったのです。皆静かに死んでいったのです。こんな非人道的なことが三度あってはなりません。戦争をして何が残るでしょうか。戦争は“悪”なのです。」
昭和20年8月9日、女学生だった堀川さんは動員先の工場で被爆。市内小学校で児童を前に長崎原爆の被爆体験を証言しています。
「戦争を知らない世代に、いかに核の恐ろしさと、戦争ほど残酷、悲惨なものはないということを理解してもらうのか。被服軍需工場に行ったときに撮った記念写真も長い間封印していたのですが、勇気を出し、見てみました。女学生12人の笑顔、そのうち8人が、一瞬にしてこの世を去りました。14歳です。今でも元気でいれば、会ってどんな話をするだろうと思います。折があれば長崎の平和公園を訪れてください。『ノーモア 長崎』を確かめてください。いつまでもいつまでも平和であってほしい。」
東大阪市では、人権問題や平和に関する啓発資料(ビデオ・DVD)の貸出しを行っています。ここでは、平和に関する啓発資料のおすすめ3選を紹介しております。詳しくは、人権啓発資料貸出のページをご覧ください。
(1)The A-bomb ヒロシマで何が起こったか
原爆による『熱線』被害、『爆風』被害、混乱の中行われた『救護活動』、長期にわたる『放射線』被害の4項目に分け、当事者の証言インタビューを交えながら、皆さんに分かりやすく伝えている内容になっています。
(2)原爆ヒロシマ 被爆の街と被爆建物
被爆建造物も今なお残る歴史の証言者です。爆心地からの距離によって、建造物の様子のちがいを感じることができます。STAY HOMEの中、直接広島に行くことは難しいですが、実際訪れている感覚を味わえる作品となっております。建造物から、原爆とは何か、平和とは何かを考えてみてください。
(3)アゲハがとんだ -1945・3・10東京大空襲ー
皆さんは、どんな時に平和を感じますか?1945年3月10日。卒業式間近に起こった『東京大空襲』。この出来事によって、主人公の平和が一瞬で形を変えていきます。このアニメを観て、戦争を起こさず平和をつくるためにできることは何かを考えてみましょう。
1993年に広島平和記念公園にある「平和の灯」と長崎平和公園内にある「誓いの火」から分火をうけ、合火して灯したものです。また、「平和の女神像」は、旧布施市時代に市民からの浄財により建てられたものを修復し、「灯」とともに設置されました。平和都市宣言の主旨をうけ、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の実現に向けた市民の決意をあらわしたものです。
平和は、人間として生きるための基本であり、全世界共通の願いです。
私たちの生活も、本市のまちづくりの理念である「人間尊重に根ざした市民都市の創造」の実現も真の恒久平和なくしては望めません。
このため、私たちは平和の重要性とこれを脅かす核兵器の廃絶を全世界に訴えるとともに、本市が非核「平和都市」であることをここに宣言します。
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